昭和40年07月09日 夜の御理解



 信心も手習いも同じ事。一段一段上手にならなん始めから先生はおらん。そういうふうにこの信心の稽古ていうのは、手習いと同じことだとこう仰るんですね。まず字を覚えなきゃならん。いろはならいろはを覚えなきゃならん。同時に筆の持ち方から墨のすり方から覚えなきゃならんまず姿勢が大事。信心も同じこと。ところがそのそういうところから信心の稽古をせずに、ただあの拝む事だけが信心、ただお願いをすることだけが信心、それで終止してしまうんでは信心の上達は得られません。ね、
 ですからまず姿勢が大事。日田の中野さんから今日で三日でしょうか、ここで修行させて頂きよる。全然姉さんたちはあんなに熱心に信心の稽古をされておられるけども、中野さん自身は、ほんのいわば拝み道も知らん。ね、ですから私、この二、三日、まーとにかく皆さんの信心を見ていく、見習なさい。ここの雰囲気をいっぺん、その雰囲気の中に自分が入らなきゃならん、いけない。
 今日あたりからぼちぼち私、そのことを言うんですね。中野さんひとつ座ることから覚えなさい。姿勢。ね、お道の信心は、座ることから、ね、金光様、七十年間という間長く座り続けられて、ならここでお取次をさして頂く先生方もここで椅子にかかっておる人もおらなければ、いたぐらむしておる人もおらん。やっぱりきちんと正座して、そして神様と氏子との間に、取次、助かりの働きをなして下さる。
 いわゆる御結界奉仕をして下さる。ですから、まずだから、座ることから覚えろ。ところがなかなか今までお行儀が悪かったとみえてその、もうちょっと二十分ぐらい座ったらもう足が痛いごたるふうです。もういつ行ってもいつ行ってもあそこで足を前になげ出して、こうやって、本を読みよるから、ね。座りつけなければそうなんですよ。ね、けれども何にもならないようだけれども、やはりその手習いと同じことと教え、手習いさせて頂いてもまず、姿勢。
 姿勢(?)からしてから、筆を持たなければその、ほんとの良い字は書けないということ。その意味あいで、中野さんはですね、もう本当に一番初めのいわばその筆の持ち方から、墨のすり方から、一点一画、厳しく是から、教えて頂く事であろうと思うんですけれども。ま、ここに何百人沢山お参りしてくるけれども、そういうところから教えてもろうとる者もおらん。ね、
 ただお参りをするお願いをする、おかげを頂くほおう、神様おかげちゃやっぱ確かにあるもんだと言う様な事から、神様が分かって、信心の稽古をしとるという様でもあっても、基本的なおかげを頂かれん。今日長男がちょっと帰って参りましたから、話す事でございます。この頃から親先生と私の話し合いの中に、どうでも善導寺の信心もして、一年何ヶ月か見習わせて頂いた。御本部でも一年間信心の修行をさせて頂いた。
 そこで本格的に私の信心を教えておきたいと、親先生そのことを申しております。本格的にひとつ私の信心を教えておきたいと思うから、おりをみて、帰して頂きたいと。ま、それそういうことじゃないと親先生にそのことには、承知しておって下さるから近いうちに迎えにいかなければならんと思うのですけども、二人話すんです。あんたがどう言う様な巧者な事を覚えても、何を覚えてもです。
 結局今度の善導寺の一年何ヶ月間というものはもう、大変な信心の基礎作りであった。ね、色んな親教会風の、いわば信心を体得したこともさることながら、それよりも何よりもです、自分の意志で修行に行ったのではなかった。唯ああいうような成り行きが、ああいうふうに、あそこで止まって、修行生にならんようなことになっておったのであるから、結局自分というものを、言い分を言うおったのじゃ稽古できない。
 自分というものを空しゅうすること。自分というものを無くしなければできることではない。だから本気で自分を空しゅうする稽古。例えばイライラしたり、腹が立ったり、情けなかったり、心が暗くなったりするということは、結局自分というものを空しゅうしてない証拠なのだから、自分が空しゅう、自分がなくなったら、何にも寂しいこともなかなければ、または情けないこともない。
 自分を空しゅうするということが、まず、最初なんです。椛目に神様の願いいわば、神様の理想実現のために、椛目の今後の椛目がです、いわば合楽教会に移る。そしていよいよ、天地の親神様の御悲願達成、いわゆる理想実現のために、神様の働きを頂くことであろうけれども、自分はそういう神様の理想実現のために、そして椛目の二代を継がせて頂くんだというて、その神様の理想実現。
 神様の理想実現で高いところばっかり、上ばっかりみるのじゃつまらんって私が。そういう椛目対する大きな期待というもの、神様の想いの中にあるとするならばです、ね、まず上の方の理想の高い所ばかり見らずに、自分の足元だけをしっかり見極めていけ。ね、それなんだと。高い所を見るじゃなくて、いわゆる低い所。自分の足元をギリギリ見極めていくのぞというて、まぁ話したことでございます。ね、
 自分を空しゅう、自分というものがあるから腹が立つのである。自分というものがあるからね、自分がああしたい、こうしたいと思うから、ああできんから、もう寂しいのである。自分がなくなったら。自分がなくなるということは、いわゆる我情、自分の思いを捨てるということ。だから親先生、任せ、勝彦さんちょっと右に行きなさい。はい。左に行きなさい、はいう。言うたらそれでいいのだと。
 いかにも馬鹿のごと。あるけれども、これが信心の基礎なのだからというて、まぁこれには勝彦の場合は少々難しい一つの基礎であり、中野さんの場合は、信心のいわば、(素?)の力。教えようとする、これから私の姿勢。または、中野さんがそれを受けていく姿勢というものが大事なのである。ね、だから座りなさい、座ることからまず、覚えなさい。ね、そして足が痛うなったら立ちなさい。ね
 ちゃんと、修行しとっちゃ何時間座とかなんと私は言わん。ああたこれらもうだいぶ修行できたなっと思ったら、二十分目に立ってからちょっと、こう行き戻りここにき散歩しなさい。そしてまた座りなさい。それが修行だと、とまぁ今日はそのことだけを私は、まーいうなら教えた。だからけして、(?)足を投げ出したらいでけん。椛目でこれだけたくさんお参りをしてくるけれども、ね、
 足を横座りどんしてから御祈念するもの、誰もおらん。そこをいっちょ覚えにゃいかんばいっちいうてまー、今日も申しております。ね、またこれから色々とです、まあ拝む道も覚えなきゃならん。天津祝詞も覚えなきゃならん。大祓いも覚えなさい。ね、それももういつの間にか覚えるがのということじゃできん。もう天津祝詞(?)覚えなさい。私そういうふうにこれから、言うていこうと思うんです。覚えようと思ったらですね、大祓いは、だいたい一日ででも覚えれるものです。
 本気になったら。ところが私そういうふうに、厳しくはここにらんだむの信者にはまだ誰も言うたことありません。けど中野さんには私それをこれから言うていこうと思う。その一番信心のしの字から教えて姿勢から教えてね、座ること天津祝詞、明日一日で覚えなさい。というふうなですね、教導をこれからしていきたいね、信心のなんたるかということをです、例えば私は今日は勝彦にもそのことを話したようにですね、そこにはこの皆さんの場合なんですよ。
 皆さんの場合はただお礼参拝、お願い参り、ちょっとお伺いに参ったと。ね、そしてなんたるかと信心の稽古をしておるけれどもです、いわゆる本気でここには信心の稽古に来る所とおっしゃるようにですね、本気で稽古にくるというならです、例えば先生からそういう共同を受ける、頂くことを願いとしとこないけませんて。ね、これは勝彦に私今日申しましたように、これから私中野さんにそういうふうに教えていこうと思うようにです、一つも難しいことじゃないですよ。他のことも難しいことは言わん。
 ここは信心の稽古にあんたは来ておるのだから、だから本当になら私ができんことをあんたには言おうとは思わん。ね、とにかく問題は一生懸命になることなんだ、そういうことに一生懸命なることなんだ。天津祝詞を覚えることに一生懸命なることなんだ。他にはない。とまぁ次々にそういうことから、まぁ教導、まあ信心の、をさせて頂こうと思うんですけれども、みなさんとってもです、いわゆるそういうところから信心を、の稽古となってくるとです、本格的な、信心が身についてくると私はそう思うですね。
   おかげを頂きました。